研究メモ
今は、夜中の1.03
先日のsupervision以来、そもそもの論文の立て付けを考え直さねばならず、かなり頭を抱えてきている。ほんまに苦しい一週間。いろんな文献を探しては読み、探しては読みと繰り返してきて、少し混乱の背景が見えてきたことを備忘録的に書いておきたい。
「3つの死のかたち」
私が心から敬愛している、死に関する社会学者Tony Walter先生の理論で「プレ・モダンの死」「モダンの死」「ポスト・モダンの死」という三つの死の形がある。この中でプレ・モダン的なものは宗教や伝統が支えてきた文脈における死であり、モダンの死というのは医学によって定義される死、そして、ポスト・モダンの死は個人個人が感情を表出していく自我や心理学を基底に置いた死として説明されている。
私が心から敬愛している、死に関する社会学者Tony Walter先生の理論で「プレ・モダンの死」「モダンの死」「ポスト・モダンの死」という三つの死の形がある。この中でプレ・モダン的なものは宗教や伝統が支えてきた文脈における死であり、モダンの死というのは医学によって定義される死、そして、ポスト・モダンの死は個人個人が感情を表出していく自我や心理学を基底に置いた死として説明されている。
私が今回苦しんでいるのは、死別の原因、または関係性によってどこまで絞り込んだ研究をするかという点で、なぜそんなにも苦しいのか考えてみた。
リヴオンのミッションにあるように
「グリーフケア(サポート)が当たり前にある社会」を実現すること
が私にとって一番遠いけれど、一番大事な目標。
支えを必要とする人には死の理由がなんであれ、亡くした人との関係がどういうものであれ、その人が必要とするグリーフケア(サポート)が確実に届く社会に近づけたい。
英国もよくよく調べていけば、かなり日本の状況に近い部分があり、やはり死因、関係性による種別ごとの支援が広がっている。ただ2000年代なかばに保健省が出したガイドラインが私にとってはとても重要なもので、死別のサポートをあまねく届ける必要性をうたっている。
私は自死遺族支援に特化した研究がしたいわけでもなく、遺児支援に特化した研究がしたいわけでもない。
全ての死因、関係性でどうグリーフケアが届けられるのかの可能性を検討したい。
もちろん、それぞれを深く掘り下げて、積み重ねていった上に、望んでいるビジョンが見えてくるのかもしれないし、修論はまだまだ入口に過ぎないから浅く広くなるより、狭く深くがよいのは百も承知。だけれど、やっぱり現在はひどく葛藤している。
そんなところに上記のトニー先生の理論を読んだときに、あぁ、なるほどと腑に落ちた感があった。
かつては、死の原因がこうだから、ケアしましょうとか、親を亡くした子だから支えましょうではなくて「死」というものを平等に見る力をもった、ある意味、あらゆる違いを越えて、死と生(いのち)の大きな物語の中で、死別を経験した人や、死を迎えんとする人たちを支えてきたのだということ。トニー先生に以前お会いしたときに、英国のグリーフケアが "highly medicalised"(「かなり医療のものになっている」)と言っていいたのも納得で、結局は医療のメガネで見ると、グリーフは分断的になっていくのだろう。
私はかつての形を取り戻したいわけではないが、分断的だけではないグリーフケアの世界をつくりたい。
「伝統的」「宗教」の限界はありつつ、そこに最大限の可能性を見据えながら、そして何より今は「社会政策」(国だけでなく、あらゆる担い手を前提とした)の視点から、可能性を探りたい。
この10数年出会ってきた多くのご遺族や死別を経験してきた人たちが教えてくれたこと。
死の種類、関係性を越えて、みな死を、死別を経験するという
前提をもってして、この時代に必要なグリーフケアの形を考えていきたい。
前提をもってして、この時代に必要なグリーフケアの形を考えていきたい。
さて、どうしよう。
どこをどう、絞るか。
まだまだ悩ましい。
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